第十三回 百人一首

第51番 藤原実方朝臣 
(ふぢはらのさねかたのあそん)

かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを”
                    (後拾遺集 恋一)

「これほどあなたを恋い慕っているということを打ち明けることが
できるとよいのですが、とても言うことなどできません。
伊吹山のさしも草(もぐさ)のように燃えている私の思いなどは、
あなたはよもやご存じないでしょう」

□ 実方のひととなり

 左大臣藤原師尹(もろただ)の孫。 父貞時が早世したので、
叔父の小一条大将斉時(なりとき)の養子として育てられた。
左近中将に任ぜられ、通称実方の中将と云われた。
長徳四年(998年)陸奥守として辺地陸奥で客死した悲劇の歌人。
端麗な容姿、風流をわきまえた振る舞いなどが人々を魅了し、
宮廷の花形となっていたらしい。 「実方集」を見ると、実方の恋
の相手は大変多く、小侍従の君、清少納言など多彩な係わりを
伺うことができる。  

□ 行成(こうぜい、前項義孝の子、三蹟の一人)との確執

 @ 実方中将桜狩の歌の事 (撰集抄 巻八)
  或る日、殿上人達が東山にお花見に行った時、俄か雨があって
 人々が大いに慌て騒いだ。 然し実方中将はいささかも慌てずに
 桜の木のもとで、

 ”さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にさくらん”

 と詠み上げたが、そのまヽ立っていたので自身は装束も絞りきれ
 ない程ずぶ濡れになってしまった。 人々は歌に感心しながらも
 濡れそぼる姿を大変気の毒に思った。
 後日斉信(ときのぶ)大納言が主上に「こんな面白いことがあった
 のですよ」と奏上した。 これを聞いた行成は「歌は面白いけど、
 ずぶ濡れにまでなることはないじゃないか、実方は馬鹿だね」
 と言った。 このことを洩れ聞いた実方は、深く恨みの気持を持った
 と云われている。 
 (撰集抄は西行作と伝えられるが、偽作との疑問もある)

 A 冠(かぶり)うち落しの事 (十訓抄 八ノ一)

  或る日、殿上で行成と実方が行きあった時、いきなり実方は行成の
 冠をうち落として、小庭に投げ捨ててしまった。 その時行成は少しも
 騒がず、供の者に冠を拾わせ冠り直し、こうがいを抜き出して鬢を
 つくろい居ずまいを正してから、「どういうことですか、こんな乱暴を
 受けるような心当たりもないから、理由を承ってから事の処理を致し
 ましょう」と礼儀正しく言った。
 実方は何も言わずにその場から逃げてしまった。
 その時主上が小窓からその様子を見ていて、行成は仲々立派だとして
 多くの人達を越えて、蔵人頭の役に任じたという。
 一方実方中将は少し勉強してきなさいということで、陸奥守に左遷された
 と伝えられている。

 B 清少納言との係わり

  然しながら二人の確執の裏には、むしろ清少納言を巡っての恋の
 鞘当ての要素があったのではとも推測される。
 「実方集」は実方と納言の係わりを次のように述べている。
 二人の仲は、お互いに人に知られぬように、絶えない仲であったが、
 どういう訳かご無沙汰が続いたので、納言が「忘れてしまったんですか」
 と問いかけると、実方は答えずに次の歌を贈った。
 
”忘れずよまたわすれずよかはらやの下たく煙(けぶり)したむせびつヽ”
 
 「忘れません、ええ忘れませんとも、瓦屋(瓦を焼くかまど)の火が
 くすぶるように、表に現われないだけなのです」

 返し、清少納言

 ”葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ”

 「下で燃えている煙が、表には燃えているように見えなくて、でも消えて
 しまわないというのは、一体何がそうさせるのでしょうか」

  一方、「枕草紙」 126段には、宮中の二月の行事の中で、行成が納言
 に餅だん(へいだん、お餅の中に肉や卵を包み込んだもの、行事の翌日に
 食する。 形が円柱状で男性器を思わせるので、あやしきもののかたちと
 表現される)を献上する下りが述べられている。
 あやしきものの献上にからんで交される、微妙な会話のやりとりに
 よって、二人の仲がかなり深いものであったことが伺われる。

  このようにお互いに心の中に持つ同じ女への思いが、はからずも宮中
 での出来事となって表れてしまったのだろうか。

□ 陸奥守実方
  
 実方の陸奥への下向が、前述のような左遷の結果と見るのはやヽ疑問で
信憑性が薄い。 位を一階級進められている事実や、彼の出発に際して
花山院を始め、多くの人々から別れの歌を贈られていることからも明らか
である。 むしろ真相は、当時不穏の動きを見せていた陸奥を鎮定する為に
朝廷からの特命を帯びての赴任であったのではなかろうか。
実方が悲劇の人となったのは、長徳四年空しくその地で没し、再び都の地を
踏むことが出きなかったことが深く係わっている。
「源平盛衰記巻七」に笠嶋道祖神を拝礼せず、馬上で打ち過ぎた為神の怒り
をかって、馬も主も共に罰し殺されたことが記述されている。
不慮の事故によって亡くなった実方の霊の、都恋しの思いが雀となって、
清涼殿の台盤所にあらわれたという説話は、彼の客死に対する人々の同情
が如何に強かったかを物語るものである。

□ あとがき
 
 後世各種物語の中に、実方の名前はいろいろな場面で出てくる。
「西行物語」では、実方の中将の墓を見て、
 
“朽ちもせぬその名ばかりをとどめ置きて枯野の薄形見にぞ見る”

”はかなしやあだに命の露消えて野辺にや誰も送り置かれむ”

と詠まれている。

「おくのほそ道」では芭蕉が、実方の塚を訪ねて、

”笠嶋はいずこさ月のぬかり道”  と詠んでいる。

浄瑠璃の熊谷陣屋の段でも 「実方は死して都へ帰りしも〜 」 
と敦盛卿は
帰ってこなかったと嘆く母の下りがある。

等々、冠事件から想定されるような短気ながさつな人柄とは裏腹に、むしろ
不遇の中に辺境で死を迎えた貴公子を惜しむ人々の気持が、後々の世迄
伝えられていったものであろう。

 次回は3月1日 「藤原道信朝臣」の予定。

              解説者 牧 宏安