第83番 『皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)』ー(そのT)
 
”世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる”
                  (千載集・雑中)
 
「この世は、遁れたいと思ってもどこにも道は無いことだ。 思い悩んだ末に心を決めて
 世を捨てて踏み入った山の奥にも、妻恋う鹿が悲しげに鳴いているようだ」
 
 逡巡の末にやっと遁世の決意をして入った山中、然しそこにも哀怨極まりない鹿の
 鳴声が
ある。 余韻嫋々の寂寥の中で、出家しきれぬ自分を見出して断念するが、
 戻っていく俗世
の前途に曙光が見出せるわけではなく、どこにも行き場のない
 深い嘆息、述懐歌の典型である。
 俊成二十七歳の時の作歌。
 
□ 俊成の生涯
 
 @ 御子左家と六条藤家
 
  藤原俊成。 平安朝末期から鎌倉時代初めにかけての代表的歌人・歌学者。 
 千載集の撰者。
 永久二年(1114年)生、元久元年(1204年)没、九十一歳。 
 百人一首の撰者、藤原定家の父。 曽祖父長家は、御堂関白道長の六男。 
 北家長家流の祖と
して歌人としても優れ、後拾遺集に初出、家集も存在している。 
 祖父忠家は同じく後拾遺集
初出。 父俊忠は二条師と呼ばれ、金葉集初出、
 俊忠集が伝わっている。
  俊成は家系の歌人・歌学者としての資質を受け継ぎ、御子左家の総帥として、
 対立する歌道
師範家の六条藤家・藤原清輔の流れと、長い歌学論争を続けて
 いくことになる。
 
 A 俊成の生きた時代背景
 
  俊成の生きた九十一年の時代背景を年表によって辿ってみると、政治体制は
 平安時代後期の
貴族社会から、鎌倉時代前期の武家社会へと移行していく
 過程にあった。
 その間、天皇家は第七十四代の鳥羽帝から、崇徳・近衛・後白河・二条・六条・
 高倉・安徳・
後鳥羽・第八十三代の土御門帝へと、十代の天皇によって
 受け継がれていった。
 また政治の権力は、天皇家の骨肉の争いと藤原家内部の権力争いによる
 「保元の乱」の結果、
源・平両氏の武家勢力が台頭することとなった。 
 更に「平治の乱」によって、源氏が没落
 平家が政治の権力を掌握、以降平家の全盛時代が訪れることになる。
 平清盛が六条帝の1166年・内大臣に、翌年太政大臣に任ぜられ、
 平家の勢いは約十五年
続くことになる。 然し福原(現在の神戸)遷都の年(1180年)、
 再び源・平の争いが始まり
 翌年平清盛が薨ずると、平家の勢いは急速に低下していくことになる。
 平家一門は1183年・六波羅に火をかけ都落ち、西国で再起を計るが、
 1185年・壇ノ浦
で源義経に破れ、安徳帝は崩御、遂に平家は滅亡した。
  後鳥羽天皇の1192年・源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が開かれ、
 遂に武家政治の
時代となった。 その頼朝も1199年・落馬事故で死亡、
 幕府の実権は北条氏へと移って
いくことになる。
 
 B 俊成の業績
 
  波乱万丈の時代を背景として、俊成が歩んだ歌道・歌学の第一歩は、
 二十七歳の時堀河百首
題によって詠んだ述懐百首がきっかけとなって、
 崇徳歌壇に参加するようになり、天皇の知遇
を得ることにより始まった。 
 崇徳院主催の久安百首のメンバーに加えられ抜擢されてその部類
 に当たったが、後年「保元の乱」に敗れて讃岐の行宮に生涯を終えられた崇徳院は、
 崩御後特に
俊成宛てに長歌を遺されていたことが判り、その恩顧の深さが知られよう。
 
  「保元の乱」から二条天皇期までの四十歳代は、不遇期で作品も比較的少ない。
 仁安二年(1167年)から安元二年(1176年)・六十三歳で重病出家してしまうまでの
 十年間
は、六条家の清輔に拮抗して、平氏など貴顕の家々の歌合の判者を勤めたり、
 千載集の前身で
ある三五代集を撰じたり、自邸に規模の大きな十首歌合を催すなど、
 積極的な姿勢を見せた時期
だった。 
 歌壇の評価も「歌仙落書」に「むかしに恥ぢぬ歌人なるべし」と、最高級の讃辞を
 捧げられる立場になっていた。
 
  六十三歳の出家後、釈阿を号した三十年の晩年期は、三期に分けられる。
 その第一期は文治四年(1188年)七十五歳で千載集を撰するまでの約十年で、
 源平の戦乱も
あって歌界も落ち着かない時期だったが、清輔が死に名実ともに
 第一人者になったところから、
摂家の九条兼実に迎えられて腕を振るった時期である。 
 創作よりも理論的な仕事の面で業績
をあげた時期といえよう。
 
  第二期は建久九年(1198年)八十五歳までの十年で、創作・理論両面で生涯でも
 最も充実
した時期である。 引き続き兼実家、その次子良経家を舞台に、
 対立し始めた歌道師範家六条
家を圧倒する一方、良経・定家・家隆ら門弟の巣立ちに
 力を注いだ時期であった。
 
  第三期は元久元年(1204年)に九十一歳で没するまでの六年間で、後鳥羽院歌壇を場にして
 最高権威としての敬意を受けつつ過ごした期間である。
 権力者土御門内大臣通親を後楯にして、俊成一門を院歌壇から締め出そうとした六条家の策謀を
 正治訴状の執筆という院への直訴の非常手段で切り返して、逆に御子左家の優位を確保し、彼の
 歌門色で染めた勅撰集・新古今集編纂への道をつけたことは評価されてよい。
 新古今集の後代文化史に及ぼした影響の大きさは計り知れないほどだからである。
 
  俊成は建仁三年(1203年)後鳥羽院直々の主催による九十賀催行の栄誉を受け、
 翌年十一月
三十日、定家ら子女達に囲まれながら大往生を遂げる。
 墓所は元の法性寺跡に当たる東福寺飛地にあり、妻の定家母の墓石と並ぶ小碑である。
 
□ 俊成の歌
 
 @ 「歌仙落書」では、俊成卿の歌を、「たかくすみたるを先として、
  えむなるさまもあり。 誠むかしに恥ぢぬ歌人なるべし。 
  年ふりたる庭の松の、あらしはげしき夕ぐれに、おく深く琴の音の
  ほのかにせむを、たちぎきたらんとやいふべからむ」 と、高い評価を
  もって紹介している。
 
  ”夕されば野辺のあき風身にしみてうづら鳴くなり深草の里”
                     (千載集・秋上)
 
  「夕べになると野辺の秋風が身にしみるように感ぜられて、
   うづらが寂しく鳴いているらしいよ、この深草の里では」
 
   余情静寂の歌で俊成の幽玄をよく表した歌として、俊成も
   自讃歌としている。 俊成三十七歳の時の歌。
 
 A 折口信夫著:日本古代抒情詩集「新古今和歌集」より
         俊成の作品解説
 
  ”思ひあまりそなたの空をながむれば霞をわけて春雨ぞ降る”
                       (恋歌・三)
 
  「こらえていても、こらえられぬその人の思いに、そのある方の空を
   ぼうとして見ていると、いっぱい立ち隔てている霞をのけて、春雨が
   降りそそいでいる」
 
   悠揚たる調子を成立させようという自覚から、こういう歌も俊成は作った
   のである。 だから「思いあまりそなたの空を」なども描写性を捨てて
   気分的にとればいいのだ。 この歌は却って恋からはそれている。
 
  ”よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ”
                            (恋歌・三)
 
  「そんなら、お前さんの思ふ通りにしたがよい。 こんなに逢いたがっている
   私だから、今の世は駄目のちの世界とででも、思わせぶりを言って安心さして
   おいてくれ。 もうもう私はお前さんのつれなさに堪えきれないで、その後の
   世界という通りにー死んでしまいそうにーなろうとしている」
 
   ともかく、平安末から鎌倉初めにかけて、歌の長者が残した名高い恋愛の記念
   である。 それだけにこの歌のもっている真実性は同感が出きる。
 
    返し:藤原定家母
 
   ”たのめおかむたださばかりをちぎりにてうき世の中の夢になしてよ”
                           (恋歌・三)
 
   「お約束だけしておく言葉。 ただそれだけでも、あの世かけての誓言と
    お考えになって、この世のことは悲観すべき世間の、現実性のない夢と
    見なしてしまって下さいよ」
 
    この歌も、この時代の普通の女性の歌とちがって、真実性をもっている。
    しかも「夢になしてよ」の大まかな感情は、仏の心にも通じている。
    この歌にはそうした信仰が伺われる。 俊成の歌に答えた歌で、当時歌壇の
    生きた伝説であった。
 
   ”標(し)めおきて今やと思ふ秋山のよもぎが下に松虫の鳴く”
                       (雑歌・上)
 
   「自分の来るべき処と標めおいて、近々にゆくことかと思っている。
    その秋山の雑草原の処に、おれの来るのを待つようなー松虫が
    鳴いている」
 
    この時俊成は八十以上になっているので、死に対する恐怖もなさそうな、
    これだけ静かな境地に到達した。 第五句はさすがに自分に裏切られている。
    松虫の為に静けさが破れどころか、滑稽にさえ聞える。
 
   ”昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける”
                       (雑歌・下)
 
   「昔すらあって過ぎた昔のように思っていた、お母さんの印象。
    そのお母さんの記憶が薄れて、更に恋しく感じることのはかなさよ。
    思えば昔から更に何十年もたっている、そのはかなさよ」
 
    この歌、凡庸な風に受け取られるが、第五句を見ると、年たけた俊成が
    自分の心の中の幼なさを哀れんでいる淋しさが出ていて、彼の歌の中では
    上の部に属することが知れる。
 
□ 結び
 
  平安から鎌倉へ一世紀近い大きな変革の時代を、俊成は歌道・歌学の文化を守り 
 育て、次代に受け継いでいった。
 藤原氏は千年の長きにわたって、多くの文化を現代まで継承してきた。 権力者の
 交代があっても、常に朝廷を中心として時代を乗り切ってきた平安貴族のしぶとさが、
 それを可能にしたものであろう。  俊成の生涯は、その象徴とも言えよう。
 
  次回は俊成と対峙する、六条藤原清輔をからめての講座となる予定。
                          解説者  牧 宏安
 
                         
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